fc2ブログ
このサイトはPC表示にて最適化されていますので,スマホの場合もPC表示をご推奨します。
2017年11月26日 (日) | 編集 |
訪問日:2016年10月

御舘館(おたちやかた)は石川県羽咋郡宝達志水町あったお城です。
都市開発等により遺構の残りにくい中世平城にも関わらず良好に遺構が残っており県史跡に指定されています。
一方で歴史的には謎が多く,岡部六弥太(忠澄),順徳上皇によるものという江戸時代の書物にあるそうですが,裏付けも無く時代的にも確度が低いのではないかと思われます。遺構からは南北朝期から戦国時代に機能したと考えられますが,誰が城主であったかについては判明していません。また,この地域は佐々成政前田利家が争った地域でもあり,何等かの拠点として活用された可能性は十分にあるのではないかと思うのです。

御舘館/01遠景  御舘館/01堀入口
【左】東側にある県道75号線からの遠景。
【右】北側の道路より残された外堀への入口がはっきりと確認できます。

御舘館/02外堀.jpg  御舘館/03外堀横矢下.jpg
【左】早速,外堀の底を歩いてみます。
【右】外堀は折れ,横矢が掛っている様子が分かります。

御舘館/04B土塁.jpg  御舘館/05外堀横矢.jpg
【左】外堀の内側には土塁が築かれさらに大きな落差を生んでいます。
【右】外堀の横矢部分から堀を見下ろしています。

御舘館/06島.JPG  御舘館/06B曲輪.jpg
【左】外堀土塁から二の丸に相当する副郭へのアクセスは曲輪内部にある飛び地のような土壇へ橋で渡していたようです。
【右】副郭の様子。ここまでが以降を確認しやすい部分です。

御舘館/07主郭へ  御舘館/08内堀
【左】主郭へ向かいます。
【右】内堀にあたる堀も残っています。

御舘館/09土橋  御舘館/10内堀2.jpg
【左】この土橋状地形の付近で内堀を渡って主郭へアクセスしていたようです。
【右】土橋状の地形から内堀の北側方向を見る。

御舘館/11主郭  御舘館/12内堀北
【左】主郭は整備されれおらず,ヤブ化しておりこれ以上の侵入は難しい状態でした。
【右】主郭の北側にもが明瞭に残っておりました。

御舘館/13屋敷  御舘館/14堀5
【左】城跡から道を挟んだ北側の畑地も屋敷跡と推定されています。
【右】これは東側の県道に沿うように大外のが検出されており,地形に名残を見ることができます。

規模も大きく遺構が良く残る貴重な中世平城。
歴史的に謎が多い城ですが歴史的に知名度の高い末森城の近くなので立ち寄ることをお勧めします。


大きな地図で表示


お城巡り ブログランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村


FC2 Blog Ranking

テーマ:史跡
ジャンル:学問・文化・芸術
2017年11月19日 (日) | 編集 |
訪問日:2016年10月

一乗寺城は富山県小矢部市あったお城です。
市史跡にも指定されているこの城の史料上における初見は1369年(応安2年)と南北朝時代にさかのぼり,南朝方で越中守護の桃井直常の持ち城の一つでした。この時は北朝・幕府方の能登守護 吉見氏頼が桃井勢を攻めて勝利を収め,桃井氏は越中を追われることになりました
戦国時代に入り織田信長が本能寺の変で命を落とすと,羽柴秀吉織田信雄・徳川家康連合が対立すると,かつてはともに織田信長軍下にあった越中の佐々成政と加賀の前田利家が対立。北陸街道脇道(田近道)を取込み加越国境を押さえるこの城は反秀吉派である佐々成政方の軍事拠点の一つとして重要な役割を果たしますが,翌1585年に佐々成政が降伏したことにより廃城になったと考えられています。

一乗寺城/01入口  一乗寺城/03大堀切
【左】一般の舗装道路から田近道の分岐地点が城への入口にあたり城碑と駐車スペースがあります。
【右】暫く進むと尾根を断ち切る大堀切が左手に現れます。先は竪堀となっています。

一乗寺城/縄張り
先ほどの城碑に彫り込まれた縄張図なのですが,分かりにくいので補足を加えています(拡大してください)。
加賀のある西側から三の丸,二の丸,本丸と並んでおり,佐々成政の本拠である越中のある東側が大手口となっています

一乗寺城/04切岸B郭  一乗寺城/05B郭
【左】田近道から見上げる三の丸の切岸は高いところで17mもあるそうです。
【右】三の丸に上がってきました。きっちり土塁の残る曲輪です。

一乗寺城/06B土塁  一乗寺城/07街道
【左】これが三の丸の土塁
西側、南側に良好に残りと折れ櫓台も確認することができます。
【右】土塁から先ほどの田近道を見下ろします。

一乗寺城/08虎口4  一乗寺城/09虎口4内
【左】三の丸の西側に開く虎口
【右】虎口内は枡形のようなスペースが確保されているようです。

一乗寺城/10坂虎口  一乗寺城/11土橋
【左】先ほどの虎口より進入路は屈曲し写真の坂虎口に繋がっていきます。
【右】三の丸と二の丸の間は堀切を渡す土橋が良く残ります。

一乗寺城/12櫓台8  一乗寺城/13B長い曲輪
【左】堀切のそばにある櫓台です。
【右】長細い曲輪の二の丸

一乗寺城/14枡形  一乗寺城/15枡形2
【左】二の丸から本丸へ向かう途中にある枡形虎口
見所の一つなのですが,コントラストが強すぎて分かりにくいですね。
【右】枡形の形状がわかりにくいので,仲間に立ってもらい矢印を加えています。

一乗寺城/16枡形3  一乗寺城/17本丸
【左】こちらは枡形を抜けた側から見ています。
【右】最高所にあたる本丸です。

一乗寺城/18眺望  一乗寺城/19帯曲輪
【左】本丸より越中側の眺望。
【右】本丸の周りには無数の壇状の曲輪があります。

一乗寺城/20竪堀  一乗寺城/21大手口土塁
【左】本丸の北側に規模の大きい竪堀があるのですが,伐採した木を放り込むという失敗を犯していますね。
【右】大手口側も伐採が進んでおり何とか進んでいけました。写真左側に土塁が伸びているのがわかります。

一乗寺城/大手道  一乗寺城/23大手口
【左】大手道の進路は何度も屈曲しながら登っていきます。黄色い矢印は櫓台跡で,登ってくる敵を監視していたことが分かります。
【右】写真の草木が生い茂っている方向に大手口が開いていますが,これ以上は進めそうにありません。

佐々成政 VS 前田利家の緊張感漂う加越国境の山城。
整備もそこそこ進んだようで,遺構も見やすくなっています。


大きな地図で表示


お城巡り ブログランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村


FC2 Blog Ranking

テーマ:史跡
ジャンル:学問・文化・芸術
2017年11月11日 (土) | 編集 |
訪問日:2017年1月

勝賀城は香川県高松市あったお城です。
1221年 承久の乱で功のあった香西資村(こうざいすけむら)が本拠地である佐料城の詰め城として標高364mの勝賀山に築いたとされます。室町時代から戦国時代前期にかけ讃岐の守護大名であった細川氏の重臣として勢力を伸ばしましたが,1575年の長宗我部元親の侵攻に備え香西佳清(こうざいよしきよ)本拠地を藤尾城へ移し,最終的には1585年の羽柴秀吉の四国征伐で降伏し廃城となっていったようです。中世山城の遺構を良く残し市史跡に指定されています。

勝賀城/01遠景  勝賀城/02分岐
【左】麓から見る勝賀城の遠景。
【右】標高も比高も高い城ですが,車でかなり上まで上がることができます。
途中の分岐地点を上に向かいます。

勝賀城/03案内  勝賀城/登り口
【左】分岐地点にあった案内板。
【右】この登り口の手前スペースに車を置きました。

勝賀城/勝賀城  勝賀城/06猫びたい
【左】登り口からは整備されている登山であるもののかなり急な登山道を30分程登ることになります。
【右】途中にあった猫びたいの標柱。猫の額のように狭い場所ということでしょう。

勝賀城/07猫の背  勝賀城/08馬返し
【左】猫の背。尾根筋の両側が制限された道を進みます。
【右】馬がえし。これは意味がわかる!馬がひっくり返るくらいの急斜面です。

勝賀城.縄張り図
現地の案内板より。面積の広い本丸から東側に二の丸、三の丸と展開しそれぞれが土塁で守られており,この土塁の残存状態が良であるのがこの城の特徴となっています。

勝賀城/  勝賀城/10本丸南土塁
【左】案内板でいうと南西(左)側に取りつきました。この辺りから城域の中心部。
虎口らしき開口部があるのですが,一直線に本丸に向かいますので,後世の改変が入っているのかもしれません,左右の帯曲輪状のスペースのどちらかを通って回り込むというのがしっくりくる経路です。
【右】ということで南側の通路を取ると左手に本丸の土塁を見ながら進むことになります。

勝賀城/11本丸虎口  勝賀城/12大手筋
【左】本丸の南東側に開いた虎口。案内板では本丸木戸とあります。
【右】振り返ると案内板で大手門の書かれている方面になります。南側のこの道を進むと,進路を東に向き変え三の丸を通って外郭方面へ抜けます。本来の大手筋は西側ではなく東側からの経路であったようですね。

勝賀城/14本丸  勝賀城/15本丸土塁
【左】虎口より見る本丸内部の様子。案内板などもここにあります。
【右】幅広で立派な本丸土塁。折れの伴う部分も確認することができます。

勝賀城/16本丸北土塁  勝賀城/17二の丸への虎口
【左】引き続き本丸土塁。ブルーシートが見えますが発掘調査が行われているようです。
【右】本丸から北東側の二の丸へ開く虎口。目隠しのよう土塁も確認できます。

勝賀城/18二の丸石垣  勝賀城/19二の丸
【左】二の丸と本丸の間が通路状になっているのが,その付近側面の石垣
【右】二の丸の様子。

勝賀城/20二の丸北土塁  勝賀城/22空堀
【左】二の丸の土塁も立派ですが,崩れているものの石垣による補強もなされていたことが見て取れます。
【右】二の丸北東側の空堀

勝賀城/21二の丸北帯曲輪  勝賀城/22帯曲輪
【左】二の丸から本丸を北回りで回り込む帯曲輪に向かいますが石がゴロゴロ。
【右】帯曲輪の外側にも土塁が築かれており,空堀状の通路になっているようです。

勝賀城/23三の丸 勝賀城/24三の丸土塁
【左】二の丸の南東側に築かれた三の丸の整備状況はあまり良くありませんでした。
【右】しかしながら三の丸でも写真のような土塁を確認することができます。

勝賀城/24三の丸堀  勝賀城/25三の丸石垣
【左】先述の二の丸空堀からの延長性上が三の丸の空堀となっています。
【右】三の丸でも石垣を確認することができました。

良く残る土塁からも香西氏の最も有力な軍事拠点と思わせるだけの城でした。
歴史的に詳細に語られていないですが,本拠地を守るために活躍したことでしょう。


大きな地図で表示


お城巡り ブログランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村


FC2 Blog Ranking

テーマ:史跡
ジャンル:学問・文化・芸術
2017年11月04日 (土) | 編集 |
訪問日:2017年1月

佐料城(さりょうじょう)は香川県高松市あったお城です。
正確な築城時期は不明ですが1221年の承久の乱で功があった香西氏初代の香西資村(こうざいすけむら)が詰め城である勝賀城とともに平時の居館として築いたのがこの佐料城とされます。
香西氏は細川氏の重臣としてこの城で勢力を伸ばしましたが,戦国時代には三好氏,十河氏に従うようになりますが,1577年 長宗我部元親の侵攻に備えて香西佳清(こうざいよしきよ)が本拠地を藤尾城に移したことにより廃城になりました。
香西氏は途中で細川氏に従って京に進出した上香西氏と讃岐に残った下香西氏に分かれますが,管領 細川政元を謀殺したことで知られる,香西元長は上香西氏ということになります。

佐料城/正面  佐料城/案内板
【左】勝賀城に向かう途中にある奥津神社が佐料城の主郭部と言われています。
【右】佐料公会堂の前にある案内板。

佐料城/奥津神社  佐料城/神社側面
【左】奥津神社の正面。
【右】神社を側面から見ると土壇のようにも見えます。

佐料城/内堀  佐料城/内堀2
【左】神社の北側には二郭と言われる果樹園が広がっているますが,その間にわずかながらが残っています。
【右】堀は西側に向かい北側にL字に折れます。写真では見にくいですが突き当りから右折しています。

佐料城/外堀跡?  佐料城/勝賀城遠景
【左】案内板に北東にL字の地割があると書いてあったのですが,果樹園のさらに北ある水路が屈曲しています。
これでしょうか。また北堀と呼ばれていた場所があることからこのあたりにも堀があったと思われます。
【右】佐料城から見る詰め城であった勝賀城の遠景です。

香西氏は守護大名細川氏の重臣として細川四天王とも呼ばれたそうです。
宅地化で城跡を感じるのは難しくなってきていますが,辛うじて残った堀が面影を伝えます。


大きな地図で表示


お城巡り ブログランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村


FC2 Blog Ranking

テーマ:史跡
ジャンル:学問・文化・芸術