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2017年01月14日 (土) | 編集 |
訪問日:2016年1月

勝瑞城(しょうずいじょう)は徳島県板野郡藍住町にあったお城です。
室町時代には阿波守護であった細川氏の守護所が築かれていたようですが,16世紀後半には細川氏の家臣から下剋上で実権を握った三好氏の本拠地として機能していました。
三好長慶が三好氏の全盛期を築き上げましたが,自身は摂津国に進出する一方で出身母体である阿波国,讃岐国,淡路国は弟たちに治めさせました。阿波国は次弟の三好義賢(実休)が治め,勝瑞城を本拠地とし城下は繁栄しました。
1562年 三好義賢が久米田の戦いで敗死した後は子の三好長治が城主となっていますが,これ以降三好氏も弱体化してきていきます。1582年に土佐より侵攻してきた長宗我部元親軍により城を守っていた,長治の音意図である十河存保(そごうながやす)が敗走し勝瑞城もその役目を終えました。
現在は国史跡に指定されて,居館部の整備が進められ,続日本100名城にも選定されています。

勝瑞城/遠景  勝瑞城/南側堀
【左】県道14号線の交差点から見る勝瑞城。
【右】県道から南側のを渡って平城部に入ります。

勝瑞城/見性寺  勝瑞城/案内パネル
【左】平城部は三好氏の菩提寺である見性寺の境内となっています。
【右】境内には城郭遺構等を説明するパネルが設置されています。

勝瑞城/土塁  勝瑞城/矢竹
【左】わずかに残された土塁
【右】矢の材料となった矢竹が植えられています。

勝瑞城/勝瑞義家碑  勝瑞城/休憩城
【左】境内の勝瑞義家碑には三好氏の戦没者への慰霊文が書かれています。徳島藩の儒家であった那波魯堂(なはろどう)による。
【右】城北側の堀越しに見えるそれっぽい建物はただの休憩所です。

勝瑞城/北西側堀  勝瑞城/北側堀
【左】平城部をぐるっと囲むを見ていきましょう。これは北西の隅。
【右】北側の堀を小橋で渡り休憩所と行き来できます。

勝瑞城/北側より  勝瑞城/東側より
【左】北側の遠景。
【右】東側より。曲輪部が少し高くなっている様子がわかります。

勝瑞城/案内板
見性寺のある平城部分から県道を隔てて南西にある館跡を見ることにしましょう。
館跡はかなり広く,現在整備が進んでいる部分です。

勝瑞館/勝瑞館堀  勝瑞館/発掘現場
【左】コンビニの裏の田んぼですが,案内板で言うと館跡からが道を越えて少し東に伸びている部分です。地形的に堀っぽい。
【右】館跡は発掘調査と公園整備が進んでいます。

勝瑞館/復元堀  勝瑞館/堀案内パネル
【左】発掘され復元中の堀跡
【右】堀跡を説明するパネル。各所にパネルが設置しされており理解の助けとなります。

勝瑞館/区画溝  勝瑞館/礎石建物
【左】館内の区画溝とされ,これを境に出土物の内容が異なっています。東側が日常のスペース,西側の礎石建物のあるエリアが政治や儀式の場であったと推定されています。
【右】礎石建物の跡に復元された建物ですが,皆が集まる会所のような場所であったと推定されています。

勝瑞館/枯山水庭園  勝瑞館/全景
【左】礎石建物の横にある枯山水庭園の跡。16世紀後半の造園と推定されています。
【右】館跡の全体を南側から見ています。まだまだ発掘整備が進んでいくことでしょう。

細川氏と三好氏による支配のもと240にも渡って阿波国の中心地であった場所です。
個人的には三好義賢の城ということで来てみたかったお城です。
三好長慶による三好氏の全盛期は三好義賢,安宅冬康,十河一存 等 弟達の存在無くしては語れません。
特に政治・軍事の両面で活躍した義賢の戦死は三好氏凋落の第一歩となってしまったのでありました。


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